ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー ロマン派時代

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー Pyotr Ilyich TCHAIKOVSKY

このページではピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの生涯・代表的な曲・動画の紹介をしています。

チャイコフスキーってどんな人?

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky1840年5月7日‐1893年11月6日)は、ロシアの作曲家。

ロシアを感じさせる音楽でありながら、ヨーロッパの雰囲気も持ち合わせる作風で、美しいメロディーと華やかなオーケストレーションから、クラシック音楽の中でも人気の高い作曲家となっている。特に交響曲や、バレエ音楽が人気だが、幅広いジャンルを作曲している。

幼少期

チャイコフスキーは1840年5月7日、ウラル地方で鉱山技師のイリヤ・ペトローヴィチ・チャイコフスキーの次男として生まれた。チャイコフスキーの祖先には軍に関係のある人が多く、父親のイリヤは軍の中佐として鉱山を指揮した。祖父のピョートル・フョードロヴィチは軍で軍医の助手をしていた。

父はフルートを吹き、母はピアノを弾き歌を歌うなど、音楽的な家庭であったが、一族に音楽家はいなかった。5歳から家庭教師マリア・パリチコワにピアノを習い始め才能を示したが、両親には息子を音楽家にする意志はなく、10歳の時サンクトペテルブルクの法律学校に寄宿生として入学させた。そこで法律学校の聖歌隊の一員となる。

14歳の時、コレラに罹患した母アレクサンドラが40歳で亡くなり、チャイコフスキーは大きな打撃を受けた。母から離れて暮らしていたうえ、母が死んだというトラウマは、チャイコフスキーの心の中に死ぬまで残った。この直後から、音楽にいっそう専念するようになり、作曲を始めるようになった。

19歳の時に法律学校を卒業し、法務省に9等文官として就職。仕事のほとんどは訴訟事務の取り扱いであり、味気のない日々が続いた。

音楽家への道

ここまでチャイコフスキーは平凡な文官としての道を歩んでいたが、21歳の秋に知人からの紹介で音楽教育を行っている帝室ロシア音楽協会を知り、翌年より学び始める。
ザレムバのクラスで和声学と対位法を学び、アントン・ルビンシテインのクラスで編曲と作曲を学び始める。このクラスに入学したことがチャイコフスキーに取って大きな転機となった。この音楽クラスはアントン・ルビンシテインによってペテルブルク音楽院に改組される。ここでチャイコフスキーは音楽を本格的に学び、のめりこんでいく。
本格的に音楽の道に進むことを決意したチャイコフスキーは、23歳の時、法務省の職を辞して音楽に専念する事になる。
チャイコフスキーは他の作曲家と比べても珍しく、一般高等教育を受けたあとに音楽教育を受けており、そのため音楽家としてのスタートは非常に遅いものとなった。

25歳でペテルブルク音楽院を卒業し、モスクワに移り、帝室ロシア音楽協会モスクワ支部で教鞭をとる。この支部からアントン・ルビンシテインの弟、ニコライがモスクワ音楽院を創設し、チャイコフスキーはそこに理論講師として招かれ、以後12年間教鞭を取ることとなった。後に、チャイコフスキーのほとんどの楽譜を出版することとなるユルゲンソン社のピョートル・イヴァノヴィチ・ユルゲンソンとは、この時期に知り合った。

この年に交響曲第1番の作曲を始め、28歳の時に全楽章の初演を行う。国民的色彩の強い、交響曲第1番の初演をきっかけに、ロシア5人組(ミリイ・バラキレフ、ツェーザリ・キュイ、モデスト・ムソルグスキー、アレクサンドル・ボロディン、ニコライ・リムスキー=コルサコフ)と知り合い、交友を結ぶ。チャイコフスキーは彼らの音楽とはある程度距離をとったものの、こののちチャイコフスキーの音楽には時にロシア風の影響が現れるようになった。

35歳の時にピアノ協奏曲第1番を作曲。初演を依頼したニコライ・ルビンシテインの酷評を受け、ハンス・フォン・ビューローに楽譜を送る。ビューローによる初演は大成功し、ヨーロッパの各都市で演奏された。ニコライはチャイコフスキーに謝罪し、自らもこの曲を演奏するようになった。

36歳の時、富豪の未亡人ナジェジダ・フォン・メック夫人から資金援助を申し出られる。これ以降14年間、メック夫人から資金援助を受けることになる。チャイコフスキーとメック夫人の間には頻繁に手紙が交わされたが、2人が会うことは一度もなかった。このころ作曲された交響曲第4番はフォン・メック夫人に捧げられた。

37歳の時にアントニーナ・ミリューコヴァに熱烈に求婚され、結婚したものの、失敗に終わる。チャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るほど精神的に追い詰められた。チャイコフスキーは突然妻の元を去り、ペテルブルクに逃れ、事実上離婚した。アントニーナが離婚に納得することはなく、その後もチャイコフスキーに手紙を送って彼を悩ませた。

作曲家に専念

38歳の時、作曲に専念するために12年間勤めたモスクワ音楽院講師を辞職する。
40歳の時に、父イリヤが死去。41歳の時には友人ニコライ・ルビンシテインが死去し、彼の死を悼んでピアノ三重奏曲の作曲を始め、ニコライの一周忌に初演した。原稿には "A la mémoire d'un grand artiste"(ある偉大な芸術家の思い出のために)と書かれていた。同年、ヴァイオリン協奏曲がウィーンで初演されたが、不評に終わった。

この頃、チャイコフスキーがロシア音楽協会のモスクワ支部局長に選ばれ、また、弟子のタネーエフがモスクワ音楽院院長に選ばれ、チャイコフスキー自身も音楽院の試験に立ち会うなど、社交的な行動を取るようになっていった。

50歳の時にフォン・メック夫人から財政援助を打ち切られ、チャイコフスキーは大きな打撃を受けた。
51歳でバレエ『くるみ割り人形』作曲。アメリカに旅行し、カーネギー・ホールのこけら落としに出演し、大成功を収めた。
53歳の時にケンブリッジ大学音楽協会から、名誉博士号を授与される。

53歳の時、交響曲第6番『悲愴』を自身による指揮で初演。それから9日後に急死。死因には諸説があるが、コレラおよび肺水腫によるものとされている。ロシア皇帝アレクサンドル3世によって国葬が決定され、サンクトペテルブルクのカザン大聖堂にて国葬が執り行われた。遺体はサンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院の墓地に埋葬された。

チャイコフスキーの詳しい生涯はこちら

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代表曲

四季

月間音楽雑誌ヌウェリストで「それぞれの月に相応しい詩を編集者が選び、チャイコフスキーが曲をつける」という企画で、毎月1曲ずつ発表されたもの。全12曲から成る。

1月 「炉端にて」 At the Fireside
2月 「謝肉祭」 Carnaval
3月 「ひばりの歌」 Song of the Larks
4月 「松雪草」 Snowdrop
5月 「白夜」 Starlit Nights
6月 「舟歌」 Barcarolle
7月 「狩り入れの歌」 Song of the Reaper
8月 「収穫」 Harvest
9月 「狩りの歌」 The Hunt
10月 「秋の歌」 Autumn Song
11月 「トロイカ」 Troika
12月 「クリスマス」 Christmas

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ピアノ協奏曲

チャイコフスキーは2曲、ピアノ協奏曲を作っている。
とくに第1番はピアノ協奏曲としても、チャイコフスキーといったらこの曲!というほどに有名。

バレエ音楽

バレエ界の3大バレエ音楽ともいわれているのが、「くるみ割り人形」「白鳥の湖」「眠れる森の美女」で、すべてチャイコフスキーの作品。特に「くるみ割り人形」はピアノソロやピアノアンサンブルにも編曲されていて、ピアニストにとっても馴染み深い作品となっている。

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交響曲

全7曲(未完の作品を含めると8曲)
交響曲第4番以降が演奏される機会が多い。特に第6番はチャイコフスキー最後の大作で、自信で「悲愴」という題名が付けられている。この作品の初演のわずか9日後、チャイコフスキーは急死している。

動画の紹介

-ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー, ロマン派時代