このページでは、クロード・アシル・ドビュッシーの生涯・代表的な曲・動画の紹介をしています。
ドビュッシーってどんな人?
クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862年8月22日ー1918年3月25日)は、フランスの作曲家。今までの音階や和声にとらわれず、自由な和声を使ったり、全音音階を多く使って作曲した。近現代時代の代表的な音楽家で、印象派を作り上げたと言われている。
※印象派は20世紀のフランスで派生した流派の1つ。気分や雰囲気に重きを置いた作風が特徴。
幼少期
1870年、カンヌに住む伯母のもと、イタリアのヴァイオリニスト、ジャン・チェルッティにピアノを習う。このカンヌでの滞在は1回だけであったが、後年ドビュッシーは鮮烈な印象を残したと手紙の中で語っている。
1871年、アントワネット・モテ・ド・フルールヴィル夫人に基礎的な音楽の手ほどきを受ける。
夫人はドビュッシーの才能を見抜き、親身に彼を教えたという。
幼少期の出来事はドビュッシーが語りたがらなかったため、明らかではないが、この時期からピアノを始めていたと思われる。
音楽院
1872年10月22日、10歳でパリ音楽院に入学する。この時の合格者はドビュッシーを含むわずか33名であった。
11歳の時に、J.S.バッハの『トッカータ』を弾いた際、「魅力的な素質」と評価されて自信を持ち、ピアニストへの道に進むことを決めたという。
1874年以降学内のコンクールを挑戦し続けるが、期待していた結果が出ず、ピアニストになることを諦め、作曲家に挑戦している。1878年にピアノ曲『フーガ』を作曲。
18歳のドビュッシーはチャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴し、『ピアノ三重奏曲』や『交響曲 ロ短調』の断片を作曲した。また、『ボヘミア舞曲』という小品を夫人の計らいでチャイコフスキーへ送るが、酷評を受けた。メック夫人を通して、ロシアの作品も勉強しており、この経験が元でチャイコフスキーやロシア5人組に影響を受ける。
ローマ大賞
1882年5月にローマ賞に挑戦するも、予選落ちに終わる。翌年、2回目となるローマ賞に挑戦し、本選の第2等賞を獲得する。さらに翌年に3回目となるローマ賞に挑戦し、ローマ大賞を受賞する。
1885年から1887年にかけてイタリアのローマへと留学したものの、あまりイタリアの雰囲気には馴染めず、ローマ大賞受賞者に与えられる期間を繰り上げてパリに戻った。1888年の夏、銀行家のエティエンヌ・デュパンの支援によって念願であったバイロイトへ初めて行き、同地で『ニュルンベルクのマイスタージンガー』と『パルジファル』を聴く。
中期
1889年1月、国民音楽協会に入会してエルネスト・ショーソンらと知り合い、新たな人脈と発表の場を得た。
6月にパリ万国博覧会でジャワ音楽(ガムラン音楽)を耳にしたことは、その後の彼の音楽に大きな影響を与えた。
1890年の28歳のとき、名前を「アシル=クロード」から「クロード=アシル」に変えた。
1894年、テレーズ・ロジェと婚約するが、ドビュッシーの恋人だったガブリエル・デュポンの知るところとなり破談。
この出来事でショーソンと疎遠になり、ショーソンが1899年6月に事故で没したときにも葬儀に参列しなかった。12月22日に『牧神の午後への前奏曲』が初演。リリー・テクシエと最初の結婚をする。
オペラ『ペレアスとメリザンド』が完成し、1902年に初演され大きな成功を収めた。これらの一連の作品で成功したドビュッシーは、作曲家としてのキャリアを確実なものとした。1905年には交響詩『海』、ピアノ曲集『映像 第1集』を発表し、新たな境地を見せる。同時にこの年、エンマ・バルダックと同棲する。のちにリリーと正式に離婚し、エンマと2度目の結婚をした。エンマとの間には娘クロード=エンマ(愛称シュシュ)が誕生する。
1910年には『前奏曲集 第1巻』を発表し、ピアノ曲において作曲家のキャリアを不動のものとした。
晩年
1914年、第一次世界大戦が勃発してエンマの息子(ドビュッシーにとっては連れ子)のラウルが兵士として動員されたことなどを受けて、戦争を恐れるようになっていたドビュッシーは、9月に家族とともにアンジェに避難したが、1か月後にパリへと戻る。
この時すでにドビュッシーの身体は病に侵されており、大腸癌を発病していた。
1918年初旬、直腸癌により床から離れられなくなり、3月25日の夕方に息を引き取った。55歳。
葬儀は29日に行われ、遺体はパッシー墓地に埋葬された。またドビュッシーが没した翌年の1919年に娘クロード=エンマがジフテリアによる髄膜炎によって夭逝、妻エンマは16年後の1934年に世を去った。
20世紀で最も影響力のある作曲家の1人で、バルトーク、ラヴェル、プーランク、ガーシュウィンなどの作曲家が影響を受けており、日本でも武満徹、坂本龍一が影響を受けている。
代表曲
2つのアラベスク
1888年に作曲。アラベスクとはアラビア風の模様などを表している。
第1番と第2番があり、第1番は比較的よく弾かれていて、子供の発表会の定番曲でもある。
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子供の領分
1906年に作曲。一人娘のクロード=エンマ(愛称シュシュ)のために作られた。全6曲。
1 グラドゥス・アド・パルナッスム博士 「グラドゥス・アド・パルナッスム」はクレメンティの教本の名前
2 象の子もり歌
3 人形へのセレナード
4 雪が踊っている
5 小さな羊飼い
6 ゴリーウォーグのケークウォーク
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楽譜 ドビュッシー/ピアノ曲集 1 (安川加寿子校註)(435001/子供の領分・アラアベスク第1、2) 価格:1210円 |
ベルガマスク組曲
1890年に作曲。題名にあるベルガマスクは「ベルガモの」という意味で、イタリアのベルガモ地方の名前とされている。全4曲。
1 プレリュード
2 メヌエット
3 月の光 ドビュッシーの曲の中でも有名な曲。
4 パスピエ ドラクエの「荒野を行く」にも使われているかも?!
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楽譜 ドビュッシー/ピアノ曲集 2 (安川加寿子校註)(435002/版画・ベルガマスク組曲) 価格:1430円 |