フレデリック・ショパン ロマン派時代

フレデリック・ショパン Frederic CHOPIN

このページではフレデリック・ショパンの生涯・代表的な曲・動画の紹介をしています。

ショパンってどんな人?

フレデリック・フランソワ・ショパン(Frederic Francois Chopin、1810年3月1日~1849年10月17日)
ポーランドの作曲家・ピアニスト。ロマン派時代に活躍したクラシック音楽の代表的な作曲家。

ほとんどの曲がピアノ曲だったため、「ピアノの詩人」と呼ばれている。
活動の大半はフランスだったが、ポーランドへの愛国心からポーランドの作曲家として知られている。
また、ポーランドの人からも愛されていて、お札に肖像画が使われたり、首都ワルシャワの空港はショパン空港とも呼ばれている。

1810年、ポーランドのワルシャワで生まれる。父親の二コラはフルートとヴァイオリン、母親のユスティナはピアノに長けていて、小さいころから音楽にあふれた生活をしていた。小さな頃は姉のルドヴィカにピアノを教えてもらうが、本格的に習ったのは1816年(6歳)の時で、その1年後には2曲のポロネーズを作曲。さらにその1年後にはコンサートを開くまでになり、「神童モーツァルト」の再来とまで評された。

1826年(16歳)の時、ワルシャワ音楽院に入り、ユゼフ・エルスナーに音楽理論や通奏低音、作曲の勉強を始める。エルスナーはショパンの事を「音楽の天才」と評し、ショパンに自由に表現するよう指導していった。

1828年(18歳)ショパンはより広い世界を見るため、ベルリンを訪れる。そこでオペラを聴いたり、演奏会に出かけたり、メンデルスゾーンなどの作曲家にも会い、楽しい時を過ごす。

翌年1829年(19歳)ワルシャワ音楽院を卒業し、ウィーンでデビューする事になる。好意的な評価を得た一方で、音が小さいなどの批評もあった。演奏家・作曲家として成功したショパンはさらに西ヨーロッパへと活動の幅を広げていく。

1830年(20歳)オーストリアへ旅立つがその直後に祖国ポーランドで「11月蜂起」が起こる。この蜂起で滞在していたオーストリアで反ポーランドの動きが強まり、ショパンはパリに行く決断する。この蜂起は失敗に終わり、心を痛めたショパンは「革命のエチュード」などを作曲する。

パリでショパンは芸術家や著名人に出会い、才能を磨いていった。ヨーロッパの各地から、ショパンに習おうと多くの弟子が訪れ、生計を立てていった。この頃、リストやベルリオーズ、メンデルスゾーン、ドラクロワなどの芸術家と親交を深めていった。

1835年(25歳)の時、ショパンは祖国ポーランドの愛国者だったが、旅券を発行するため、フランスの市民となる。

ショパンは大きなホールでの演奏をあまり好まず、小さなサロンや自宅などの部屋で、友人たちの前で演奏する事を楽しんでいた。また、健康状態も良くはなく、演奏家として各地で演奏活動する事もなかった。もともと、人前で演奏する事が好きではなかったようで、この頃になると教育や作曲で収入を得ていた。

チェコのカールスバートで両親に再会。しかし、これが両親に会う最後となった。
パリに戻る途中で親交のあったポーランド人貴族のヴォジンスキ伯爵に会う。そこで娘のマリアに一目ぼれをし、婚約。しかし、ショパンの健康状態の悪さから、結婚は無期限延期となってしまう。その後、伯爵家から婚約を破棄される。この時の悲しみを「別れのワルツ」に残す。

1836年(26歳)友人のリストの愛人マリー・ダグー伯爵夫人のホームパーティーでジョルジュ・サンドに出会う。(ジョルジュ・サンドはペンネームで、本名はアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン)
ショパンとサンドの話は有名だが、ショパンは最初に会った時、サンドに嫌悪感を抱いていた。しかし、サンドの方はショパンへの愛を感じていた。

1838年(28歳)2人は恋人の関係になる。
ショパンの体調は相変わらず悪く、空気の悪いパリでは回復しないと思ったサンドは、静養のため暖かいスペインのマヨルカ島に旅に出る。最初の1週間は温暖で穏やかな日々を過ごすが、後に天候が一転。嵐と激しい寒暖差でショパンの病状は悪化し、現地の医者が3人も代わる代わる診たが、それでも良くはならなかった。

それでも、サンドに支えられながらショパンはこのマヨルカ島で数々の作品を残している。特に前奏曲「雨だれ」のストーリーはよく知られている。

ショパンの体調が回復しないことから、マヨルカ島から去ることになる。数か月、暖かい場所で過ごし、1939年(29歳)、サンドのノアンにある別荘で夏を過ごし、パリに戻る。ノアンでの日々はショパンにとって静かに過ごせる時だったようで、ここでも名曲を残している。

体調の悪いショパンを献身的な愛で支えるサンドだったが、1847年(37歳)の時、2人の関係は終わる事になる。

サンドと別れてからは、酷いうつ状態になっていたが、弟子の支えもあり、1848年(38歳)の時、ロンドンで最後の演奏会を開く。イギリスへの演奏旅行を終え、フランスに戻るが、日程などがきつかったからか、さらに体調を悪化させてしまう。

1849年(39歳)の秋、ショパンの病状は更に悪くなり、面会できるのも一握りの近しい友人のみとなった。
10月17日、友人たちに見守られながら39歳という若さで息を引き取った。

ショパンの死因は解明されていないが、肺結核で亡くなったと言われている。
ショパンの心臓は姉のルドヴィカによって、祖国ポーランドへ持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会の柱に収められた。

代表作品

ショパンはピアノの詩人と言われるように、ピアノ曲をたくさん残しています。

練習曲 op.10 op.25

ショパンは練習曲集を3つ書いています。そのうちop.10とop.25の練習曲は音楽を専門に学ぶ人の必須の曲となっています。

・別れの曲 op.10-3
・革命 op.10-12
・木枯らし op25-11

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即興曲

即興曲を4つ書いています。そのうち第4番は幻想即興曲と呼ばれ、ピアノを習っている方の憧れの曲になっています。

幻想即興曲 op.66

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ポロネーズ

16曲のポロネーズを残しています。ポロネーズの起源はポーランドの踊りで、のちに宮廷などの式典でも使われるようになった。ポロネーズはポーランドの代表的な踊りだけでなく、ポーランド人にとっても誇りになるような音楽となっている。

・第3番 軍隊ポロネーズ op.40-1
・第6番 英雄ポロネーズ op.53
・第7番 幻想ポロネーズ op.61

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ワルツ

18曲のワルツを残している。ショパンのワルツは実際の踊りで使われるワルツというよりも、サロンで演奏するのにピッタリなワルツという印象。

・第1番 華麗なる大円舞曲 op.18
・第6番 子犬のワルツ op.64-1
・第9番 告別のワルツ op.69-1

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ノクターン

21曲のノクターンを残している。特に第2番が有名で、原曲だけでなくアレンジもたくさんされている。

・第2番 op.9-2

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その他にもたくさんの名曲を残している。

※楽譜によって、かなり音が違うことがあります。動画ではパデレフスキー版を使用しています。

動画の紹介

幻想即興曲

-フレデリック・ショパン, ロマン派時代